出産後に多くの女性が直面する急激な抜け毛は、高濃度だった女性ホルモンが平常値へ戻ることで起こる生理的な現象です。
成長期にあった髪が一斉に休止期へ移行するため、一時的に脱毛が増加します。
本記事ではホルモン変動によるヘアサイクルの乱れや、育児特有の環境変化が髪に与える影響を解説し、健やかな髪を取り戻すための知識を提供します。
分娩後脱毛症とは何か:生理的変化の全体像
分娩後脱毛症は病気ではなく、出産という大仕事を終えた母体に起こる一時的かつ自然な生理現象です。妊娠中に変化したホルモンバランスが、元の状態に戻ろうとする過程で発生します。
この症状は多くの経産婦が経験するものです。まずはその特徴を正しく理解し、一般的な薄毛とは異なるメカニズムであることを知るのが、不安解消への第一歩となります。
分娩後脱毛症の定義と発症率
医学的には「分娩後休止期脱毛」と呼ばれます。ヘアサイクルにおいて、髪が成長を止めて抜ける準備をする「休止期」の割合が、出産後に急激に増加することが原因です。
通常、日本人の髪は約10万本あり、そのうちの85〜90%が成長期にあります。しかし出産後はバランスが崩れ、休止期の髪が30〜40%以上に達することがあります。
この症状は非常に一般的で、出産した女性の約7割から8割が抜け毛の増加を実感します。初めての出産で驚く方も多いですが、体が正常に妊娠前の状態に戻ろうとしている証拠です。
通常時と分娩後の脱毛状態の違い
通常の抜け毛と産後の抜け毛には、本数や発生タイミングに明確な違いがあります。その違いを以下の表で比較します。
| 項目 | 通常の脱毛 | 分娩後の脱毛 |
|---|---|---|
| 1日の抜け毛本数 | 50本〜100本程度 | 150本〜200本以上になることも |
| 発生のタイミング | 季節の変わり目や加齢により徐々に | 産後2〜3ヶ月頃から急激に開始 |
| 主な要因 | 老化、遺伝、ストレスなど | 女性ホルモンの急激な減少 |
発症の時期とピーク、そして収束
産後すぐに髪が抜け始めるわけではありません。一般的に分娩後脱毛症が顕在化するのは、産後2ヶ月から3ヶ月経過した頃です。
ホルモンの変化が起きてから実際に髪が頭皮から離れるまでに、タイムラグが存在するからです。産後の忙しさが落ち着いた頃、急な抜け毛に気づくケースが多く見られます。
抜け毛のピークは産後4ヶ月から6ヶ月頃に訪れます。前髪の生え際が薄くなったり、ボリュームが減少したりしてヘアスタイルが決まりにくくなります。
しかしこの状態が永続することは稀です。産後6ヶ月を過ぎると徐々に抜け毛は減少し始め、1年程度で元の毛量に戻ることがほとんどです。
一般的な円形脱毛症や加齢による薄毛との違い
他の脱毛症と混同して不安になる必要はありません。円形脱毛症は境界がはっきりした円形の脱毛斑ができるのが特徴です。
一方、分娩後脱毛症は頭髪全体が均一に薄くなる「びまん性」の特徴を持ちます。特定の部分だけが完全に脱毛することはなく、全体の密度が低下するイメージです。
加齢による薄毛は時間をかけて徐々に進行し、髪そのものが細くなります。対して分娩後脱毛症は発症が急激ですが、ホルモンバランスが整えば自然回復が見込めます。
エストロゲンの役割と急激な落差
髪の成長には女性ホルモンのエストロゲンが深く関与しており、産後の急激な分泌量の減少が脱毛の引き金となります。妊娠中に維持されていたホルモンバランスが崩れることで、髪の成長維持機能が失われます。
妊娠中のエストロゲン濃度と髪の寿命延長
妊娠すると胎盤から大量の女性ホルモンが分泌されます。特にエストロゲンは、妊娠後期には非妊娠時の数十倍から百倍近い濃度に達することもあります。
エストロゲンには髪の成長期を延長させる作用があります。本来であれば寿命を迎え抜けるはずの髪を、頭皮に留め置く働きをするのです。
その結果、妊娠中の女性は髪のツヤが増したり、毛量が増えたように感じたりします。毎日抜けるはずの髪が蓄積され、一時的な「毛量増加ボーナス期間」となります。
出産に伴うホルモンの急降下
出産により胎盤が排出されると、高濃度だったエストロゲンとプロゲステロンの分泌量は一気に減少します。数日のうちに妊娠前のレベルまで急降下します。
この急激な落差が身体にとって大きなスイッチとなります。ホルモンによって成長期をつなぎとめられていた髪は、支えを失った瞬間に一斉に寿命を終えます。
妊娠中に抜け落ちるはずだった髪と、自然なサイクルで抜ける時期が来た髪が、タイミングを同じくして抜ける準備に入ってしまうのです。
妊娠期と産後のホルモン環境の比較
| 時期 | エストロゲンレベル | 髪の状態への影響 |
|---|---|---|
| 妊娠初期〜中期 | 徐々に上昇 | 髪の成長期間が延び始め、抜け毛が減る |
| 妊娠後期 | ピークに達する(高濃度) | 髪が最も抜けにくく、毛量が多く感じる |
| 出産直後 | 急激に低下し平常値へ | 成長維持の命令が途絶え、休止期へ移行開始 |
プロラクチンと授乳の関係性
産後は母乳分泌を促すホルモン「プロラクチン」が活発になります。これには排卵を抑制する働きがあり、エストロゲンの回復を穏やかに遅らせる傾向があります。
そのため完全母乳で育児をしている女性は、生理の再開が遅くなることがあり、ヘアサイクルの正常化にも少し時間がかかる場合があります。
ですが、これはあくまで回復過程の違いです。母乳育児が脱毛症を悪化させる直接的な原因ではありませんので、自然な回復の一環と捉えることが大切です。
ヘアサイクルの強制リセット現象
分娩後脱毛症の本質は、ホルモンの急変によってヘアサイクルが強制的に同期され、リセットされる点にあります。この仕組みを理解することで、抜け毛が異常事態ではないと認識できます。
ヘアサイクルの各フェーズ解説
髪は以下のサイクルを繰り返して生え変わります。
- 成長期(Anagen)
毛母細胞が活発に分裂し、髪が太く長く伸びる時期。通常2〜6年続きます。妊娠中は期間が延長される。 - 退行期(Catagen)
毛母細胞の分裂が止まり、毛根が縮小していく時期。2〜3週間と短い期間で終わる。 - 休止期(Telogen)
髪の成長が完全に止まり、次の新しい髪を待つ時期。3〜4ヶ月続き、自然に抜け落ちる。
成長期から休止期への一斉移行
通常、髪は1本1本がバラバラのサイクルで動いているため、一度に大量に抜けることはありません。しかし出産時の変化は、髪に対して「成長終了」の合図を一斉に送ります。
その影響で、全体の髪の相当数が同時に「休止期」へと移行してしまいます。これを「休止期への同期化」と呼び、まとまった抜け毛の原因となります。
休止期の期間と脱毛のタイムラグ
休止期に入った髪はすぐに抜けるわけではありません。毛根は頭皮の浅い部分に留まりながら、下から新しい髪の芽が育ってくるのを待ちます。
この待機期間が約3ヶ月です。新しい髪が成長して古い髪を押し出す準備が整った頃、つまり産後3ヶ月前後に大量の髪が抜け落ちます。
このタイムラグは生理的な長さによって決まっています。そのため、産後のケアで抜け毛の開始時期をコントロールすることは難しいのが現実です。
新しい髪の生成準備
大量の抜け毛を見ると不安になりますが、毛根が死んでしまったわけではありません。髪が抜けるということは、その下で新しい髪の製造が始まっているサインです。
抜けた毛の毛根が棍棒のように丸くなっているのは、自然な生え変わりの証拠です。毛包自体は次の成長期に向けて活動を再開しています。
育児に伴う栄養不足と血液の質の低下
産後の女性の体は、ホルモン変化に加え深刻な栄養不足に陥りやすい状態です。髪は生命維持の優先度が低いため、栄養枯渇の影響を真っ先に受けてしまいます。
母乳育児と鉄分・タンパク質の消費
母乳は「白い血液」と言われるように、お母さんの血液を原料として作られます。授乳期には大量のタンパク質や鉄分が母乳を通じて赤ちゃんに移行します。
髪の主成分である「ケラチン」の合成には、鉄分や亜鉛が欠かせません。しかし出産時の出血や母乳生成で鉄分が消費されると、体は貧血状態になりやすくなります。
貧血になると頭皮への酸素供給が滞り、毛母細胞の活動が低下します。これが産後の髪がパサついたり、細くなったりする要因の一つです。
髪の合成に必要な栄養素の不足
産後の忙しさから、食事はおにぎりやパンだけで済ませてしまうことも少なくありません。しかし健康な髪を作るためには、ビタミンB群や亜鉛が必要です。
これらの栄養素が不足すると、新しい髪が生えてきても弱々しくなってしまいます。以下の表を参考に、意識的に食材を選んでみてください。
産後の髪に必要な主要栄養素
| 栄養素 | 髪への役割 | 多く含む食材 |
|---|---|---|
| タンパク質 | 髪の原料となるケラチンの構成要素で基礎物質 | 肉、魚、卵、大豆製品 |
| 鉄分 | 酸素を運び、毛母細胞の活性化を支える | レバー、赤身肉、ほうれん草 |
| 亜鉛 | アミノ酸をケラチンに再合成するのを助ける | 牡蠣、豚レバー、ナッツ類 |
産後ダイエットの影響
産後早期から過度な食事制限を行うことは、髪にとって大きなリスクです。摂取カロリーを極端に減らすと、体は生命維持を最優先するモードに入ります。
その結果、髪や爪への栄養供給が遮断されてしまいます。産後のダイエットは体調の回復を見極め、栄養バランスを重視して緩やかに行うことが重要です。
ストレスと睡眠不足による自律神経の乱れ
産後の生活は身体的・精神的に大きな負荷がかかります。「ストレス」と「睡眠不足」は自律神経のバランスを崩し、頭皮環境を悪化させるため、抜け毛が長引く原因となります。
ストレスが髪に与える悪影響
- 血管の収縮
交感神経が優位になり血管が収縮します。頭皮の血流が悪くなり、栄養が届きにくくなる。 - 内臓機能の低下
胃腸の働きが弱まり、栄養吸収率が下がる。結果として髪への栄養不足を招く。 - ホルモンバランスの回復遅延
過度なストレスは脳に影響を与え、卵巣からのホルモン分泌指令を乱す可能性がある。
細切れ睡眠による成長ホルモンの欠如
新生児のお世話には数時間おきの授乳が必要で、まとまった睡眠をとることが困難です。髪の成長を促すホルモンは、深い睡眠中に多く分泌されます。
細切れの睡眠が続くと、この成長ホルモンの分泌が不十分になります。その結果、毛母細胞の修復や分裂がスムーズに行われなくなってしまいます。
慣れない育児への緊張感
「赤ちゃんを守らなければ」という責任感は、常に交感神経を興奮状態にします。リラックスできないと、身体の修復モードに入れません。
意識的に深呼吸をしたり、短時間でも一人になる時間を作ったりしてください。緊張を解くことが、結果として髪の健康にも繋がります。
頭皮環境の変化と物理的ダメージ
産後は身体の内側だけでなく、頭皮の表面環境も変化しています。また、育児中のライフスタイルが知らず知らずのうちに髪へ負担をかけていることもあります。
皮脂バランスの崩れと乾燥
ホルモン変化は皮脂腺の働きにも影響します。産後は肌質が変わり、頭皮が乾燥して痒みが出たり、一時的に脂っぽくなったりと不安定になります。
乾燥した頭皮はバリア機能が低下して炎症を起こしやすく、健康な髪が育ちにくい土壌となってしまいます。
頭皮環境を悪化させる要因
| 要因 | 状態 | 対策 |
|---|---|---|
| 洗浄不足 | 入浴時間が取れず、すすぎ残しや皮脂詰まりが発生 | 短時間でも頭皮を中心にしっかり洗う |
| 乾燥 | 水分保持力が低下し、フケや痒みが出る | 頭皮用の保湿ローションを使用する |
| 紫外線 | 散歩などで無防備に紫外線を浴び、ダメージを受ける | 帽子や日傘を活用し、直射日光から守る |
ヘアスタイルによる牽引性脱毛のリスク
育児中は髪が邪魔にならないよう、ゴムで結ぶことが多くなります。毎日同じ場所で強く結んでいると、生え際などの毛根に常に負担がかかります。
これが物理的なダメージとなり、「牽引性脱毛症」を併発することがあります。分娩後脱毛症で弱っている毛根に、さらなる負担をかけることは避けましょう。
シャンプーの選び方とケア
産後のデリケートな頭皮には、刺激の強いシャンプーよりも、マイルドな洗浄力のアミノ酸系シャンプーが適しています。
また、入浴後は自然乾燥させずにドライヤーで素早く乾かすことが重要です。濡れたまま放置すると雑菌が繁殖し、頭皮環境の悪化を招きます。
回復への見通しと医療機関への相談
分娩後脱毛症は永遠に続くものではありません。体の回復とともに髪も必ず戻ってきます。過度な不安を持たず、長い目で回復を見守ることが大切です。
自然回復のタイムライン
多くのケースでは、産後6ヶ月から1年で自然に気にならなくなります。最初に「アホ毛」と呼ばれる短いツンツンした髪が生えてくるのが回復の兆しです。
これは新しい髪が元気に育っている証拠です。完全に元のボリュームに戻るには、髪が伸びる速度を考慮するとさらに時間がかかることもあります。
回復プロセスの目安
| 時期 | 状態の目安 |
|---|---|
| 産後0〜2ヶ月 | まだ抜け毛は目立たない。ホルモンバランス調整期。 |
| 産後3〜6ヶ月 | 抜け毛のピーク。ボリュームダウンを感じやすい。 |
| 産後6〜9ヶ月 | 抜け毛が落ち着き始める。短い新生毛が目立つ。 |
| 産後1年以降 | 多くの人でヘアサイクルが正常化し、毛量が戻る。 |
専門医に相談すべきタイミング
基本的には自然治癒を待つものであり、過度な心配は不要です。しかし産後1年以上経過しても抜け毛が減らない場合は、別の要因が隠れている可能性もあります。
地肌が広範囲に透けて見える、大量のフケや炎症を伴うといった場合は、甲状腺機能の異常などが疑われるため注意が必要です。
抜け毛のストレスで日常生活に支障をきたすほど悩んでしまう場合も、専門医に相談しましょう。授乳中でも使用できる薬の処方などを受けられます。
よくある質問
- 授乳を続けると抜け毛は治らないのですか?
-
授乳を続けても抜け毛は自然に治まります。確かに授乳中は栄養が必要とされ、ホルモンの戻り方も緩やかになる傾向があります。
ですが、それが原因で髪がなくなることはありません。無理に断乳する必要はなく、栄養を補給しながら授乳期間を楽しんでください。
- このまま髪が全部抜けてしまわないか心配です?
-
全部抜けてしまうことはありません。分娩後脱毛症は、あくまでヘアサイクルの「休止期」の割合が増えるだけだからです。
すべての髪が抜けるわけではありません。ピーク時には驚くほど抜けることもありますが、必ず終わりが来て新しい髪が生えてきます。
- シャンプーの回数は減らしたほうがいいですか?
-
シャンプーは毎日行い、頭皮を清潔に保つことが大切です。洗髪時の抜け毛を見て怖くなり、回数を減らしたくなる気持ちは理解できます。
しかし皮脂や汚れが溜まると頭皮環境が悪化し、かえって新しい髪の成長を妨げます。優しく洗い、しっかりすすぐことを心がけてください。
- 市販の育毛剤は使っても大丈夫ですか?
-
使用しても問題ありませんが、授乳中の場合は成分を確認することが重要です。アルコール分が強いものは、肌が敏感な産後には刺激になることもあります。
「産後用」「授乳中も可」と記載されているものや、無添加で刺激の少ないものを選ぶと良いでしょう。
- 二人目の出産でもまた同じように抜けますか?
-
個人差はありますが、二人目以降でも同様に抜けることが多いです。体質の変化や年齢により、回復に少し時間がかかることもあります。
しかしメカニズムは同じですので、いずれ回復します。早めの栄養補給や休息を心がけることで、心に余裕を持って対処できるはずです。
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